社伝によれば、宝来山神社の創建は宝亀(ほうき)年間(770~780)に和気清麻呂公(733~799)が八幡宮を勧請し、八幡山と呼ばれるようになったのが始まり、とされています。
当神社が鎮座するこの地は、桛田荘(かせだのしょう)と呼ばれていました。桛田荘が京都高雄にある神護寺(真言宗)の荘園になるのは、寿永2年(1183)のことです。その頃の景観を描いたとされる2枚の桛田荘絵図(いずれも重要文化財)が、神護寺と当神社とに残されています。
この絵図には「八幡宮」と「堂」とが描かれ、その後身とされる当神社と神願寺とが、現在も同じ境内に隣接して建っています。
神願寺は、鎌倉時代に活躍した僧である文覚上人が熊野からの帰りにこの地を訪れ、創建したとも言われています。
神護寺は、桛田荘を重要な荘園の一つとして位置づけ、当神社の保護にも当たりました。しかし、全国的な戦乱が起こる戦国時代には、神護寺が遠隔地にある桛田荘を支配することが困難になり、桛田荘周辺が高野山の荘園であったこともあって、桛田荘は高野山との関わりを深めていきました。
それには、桛田荘東村に居住していた土豪で、高野山の福蔵院(現在の巴陵院)との関係が深かった是吉(これよし)家が関わっていました。創建当初、八幡宮と呼ばれていた当神社が、いつごろからか宝来山神社と呼ばれるようになったかは明らかではありません。
ただ、大永5年(1525)の年紀のある当神社所蔵の古文書(福蔵院旧蔵)には、「是吉大明神」とともに「宝来山大明神」と記されており、桛田荘が高野山との関わりをもつなかで、当神社も宝来山大明神社(宝来山大明神)と呼ばれるようになったと見られます。天正8年(1580年)の年紀をもつ当神社所蔵の太刀にも、「宝来山大明神」の銘がみえます。
江戸時代の初め、是吉家の当主であった是吉(?~1614)は、当神社の再建に尽力しました。棟札から、慶長19年(1614)に現在の本殿四社(重要文化財)が建立されたことが分かります。
また、末社東殿・西殿(和歌山県指定文化財)は、17世紀半ばの建立とされています。このほか、当神社には元和5年(1619)の銘のある湯立釜、寛永元年(1624)の扁額、江戸時代の棟札や古文書など、宝来山神社の歴史を物語る宝物が多く残されています。
▲上記写真は昭和9年(1934)ごろの宝来山神社鳥居・拝殿